スカイライン神話を止めた1600GT

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スカイライン伝説

1964年、5月、第2回日本グランプリの真打ちはGTカーレース。

前年の第1回日本グランプリ、プリンスはグロリアとスカイラインでコロナ、クラウン、ブルーバード、セドリック、ベレットなどの国産のライバル達に完膚なきまで叩きのめされた。最高位がグロリアの9位。後の伝説になる、あのスカイラインがどん尻だった。
当時は国産メーカー全てがクランプリに参戦し、その結果が派手にマスコミに載った。クラス1位はそのメーカーの勲章だった。後の名デイレクター桜井真一郎も翌日は上司に呼ばれてこっぴどく叱られた。
skyGT-B.jpg気を取り直して、翌'64年に向け、桜井は手持ちの戦力で何ができるかを真剣に模索した。まず1500ccのスカイラインは、同クラスのコロナやベレットに比べ如何にも非力だった。グロリアの6気筒エンジンにウエーバーキャブを換装しそれをスカイラインに載せる事を考えた。
スカイラインのフロントを200mmのばし、そこへ無理矢理6気筒エンジンを押し込んだ。さっそくコースへ持ち込んでテストすると、パワーも増えたし、ホイールベースが伸びたおかげで直進安定性が格段に高まった。当時のGTクラスは同じクルマを100台制作すればホモロゲーションを取得できる。ドライバーも生沢と砂子という実力派を揃えた。「今回はいただきだ」桜井がそう確信したのはグランプリの1ヶ月前だった。
2ndJgp.jpg 桜井のプリンスチームは7台のスカイラインGTを揃え、グランプリに必勝体制で臨んだ。
ところが、思わぬ伏兵が出現した。桜井がスカイラインのドライバーに登用しようと考えた事のある式場壮吉がそれだった。
トヨタの資金援助を得たという情報もあったが、いずれにせよ、式場はドイツ本国からレーシングマシン・ポルシェ904を空輸してエントリーしてきたのだ。純粋にレースの勝利のために製作されたポルシエは、乗用車の改造版スカイラインGTとは"モノ"が違う。桜井は上司が真っ赤になって怒る顔が目に浮かんできた〜。

いよいよ'64年日本グランプリだ。予選でトップのポルシエがレースをリードしてゆく。追う、プリンス勢は必死だ。レース中盤の7周目のバックストレートで、周回遅れのクルマに、式場のポルS54B.corner.jpgシエはブレーキを踏んだ、ガクンとスピードが落ちたポルシエを、アクセル全開で追いかけて来た"生沢徹"のスカイラインがぬき去り、そのままグランドスタンド前に飛び出してきた。この瞬間、10万人近く集まった観客は熱狂し、グランドスタンドは総立となった。"スカイライン神話"が誕生した瞬間だ。日本の1500ccのセダンが世界を代表するレーシングカーを抜いた、と言うドラマに、人々は喝采した。

レースは次の周にはポルシエに抜き返され、そのまま最後まで順位が変わる事はなかった。
しかし、優勝したポルシエより、2位の生沢とスカイラインGTが当日のテレビ、翌日の新聞に大々的に報じられた。まるで優勝したかのように。

結果はともかく、桜井は上司に叱れる事もなくホッとした、翌日から翌年のグランプリを見越した仕事に精力的に取り組む事ができた。
その後、6気筒エンジンを搭載するスカイラインGTは「スカG」と呼ばれ、日本のツーリングカーの王者として1968年まで4年間、無敵でサーキットを駆け巡り、勝ちまくった。

1966年プリンス自動車は日産自動車と合併した。無敵のスカイラインは、頭にニッサンの文字がつくようになり、いよいよライバルトヨタが動きだした。

TOYOTA1600GTnormal.jpgトヨタはコロナ・ハードトップに"トヨタ2000GT"の2気筒分を削った4気筒DOHCエンジン(9R型)を載せてサーキットに表れた。
トヨタRTXとネーミングされたそのコロナ・ハードトップは、トヨタ2000GTと同様、耐久レースを中心にエントリーし熟成されていった。1967年、トヨタ2000GTが238万円という当時、日本車最高のプライスでToyota16GT.Emblem.jpg市販された3ヶ月後、ひっそりと販売された。正式名称は"トヨタ1600GT-4"と"トヨタ1600GT-5"。2000GTと同じ5速MTモデルがGT-5だ。
ソレックスキャブレターを2連装。放熱フィン付きのアルミ製オイルパン、強化クラッチ、LSD、強化サスペンション、フロントにダンロップ製ディスクブレーキ、後輪にはPCV(プレッシャー・コントロール・バルブ)、タイヤハウスはノーマルよりふたまわり大きい、シートも2000GT譲りの本格的なバケットシートと、そのままレースのスターテイングラインに並べる仕様だ。

R9DOHC.jpg狙いは当然、"ニッサン"・スカイラインGTを破ることだ。
スカイラインGTが大排気量エンジンで性能アップを計ったように、トヨタはDOHCエンジンに活路を見い出したのだ。あえて、400cc少ない排気量を選んだのは、トヨタの自信か。
toyota16GT_GO.jpg充分な熟成期間を経て、本戦(ツーリングカー)に挑んできた"トヨタ1600GT"は軽量、コンパクトで良く回るDOHCエンジンという強力な武器を持っていた。コーナーでも、ストレートでも瞬く間にスカイラインを抜き去っていった。1964年から永きに渡って君臨したツーリングカー王座は、満を持した"トヨタ1600GT"に移動した。とくに、1968年第5回日本グランプリ、ツーリングカーレースで1位、2位と4位を"トヨタ1600GT"が占めたことで、日産はスカイラインの姿をサーキットから消してしまった。

翌、1969年の新型スカイラインGT-Rのサーキットデビューを、新聞全国紙の朝刊で勝利宣言とも思われる告知をしたのは、その悔しさの発散だったのだ。

<文中敬称略で使用させていただきました。>

第5回日本グランプリ自動車レース大会
開催日1968年05月02日-1968年05月03日
開催場所:富士スピードウェイ
 
決勝
順位車番ドライバー車名タイム周回数
1 大岩 湛矣トヨタ1600GT0:34:49.14015
2 川合 稔トヨタ1600GT0:34:54.44015
3 田村 三夫スカイライン2000GT0:34:58.31015
4 小平 基トヨタ1600GT0:34:58.32015
5 浜野 順スカイライン2000GT0:35:23.98015
6 鈴木 義彦スカイライン2000GT0:35:55.87015
7 杉山 武スカイライン2000GT0:35:59.58015
8 成広 不二夫トヨタ1600GT0:36:08.53015
9 棚田 康敬スカイライン2000GT0:36:12.55015
10 竹田 通房スカイライン2000GT0:36:25.81015
21 西川 順モーリス・ミニクーパー0:35:32.75014
24 矢島 正則ホンダS6000:37:03.78014



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