1928年8月14日、ローマに生まれはリナ・ウェウトミューラーは、本名をアルカンジェラ・フェリーチェ・アッスンタ・ウェルトミューラー・フォン・エルグ・スパノル・フォン・ブラウイッヒという。スイス系貴族の家系で、父親はかなり有力な弁護士だったという。ただ、彼女自身は相当なお転婆娘で、退学歴11回というツワモノだった。そんな彼女と意気投合したのがフローラ・カラベッラという年上の女学生。このフローラからタバコの味と演劇の魅力を教えてもらったらしい。
すっかり演劇少女となった彼女は、父親の猛反対を押し切って演劇学校へ入学。卒業後は幾つかの劇団に在籍し、人形劇団の一員としてロンドンやパリへ巡業も行った。そんな折、彼女は旧友のフローラと再会。当時マルチェロ・マストロヤンニと結婚していたフローラは、ウェルトミューラーをフェデリコ・フェリーニ監督と引き合わせた。フェリーニは豪快で物怖じしない彼女をすっかり気に入り、映画『81/2』(62年)の助監督に抜擢する。
このフェリーにとの出会いが、あらゆる面で彼女の人生を大きく変えたようだ。後年の彼女の作品を見ても、そのユーモア・センスからビジュアル・センスに至るまで、フェリーニからの影響がそこかしこで手に取るように分かる。
“撮影が終わる頃、海岸線を歩きながらフェデリコに言われたのよ。テクニックについて言う輩もいるだろう。いろいろと提案されることもあるはずだ。しかし、誰の言葉にも従っちゃいけない。あくまでも友達に話しをするように物語を語れ。語り部としての才能があれば上手くいく。それがなけりゃ、いくらテクニックがあっても無駄だ、って。まったくその通りだと思ったわ”
その後、友人の勧めで書いた脚本“I basilischi”がエルマンノ・オルミ監督の制作会社に認められ、63年に監督デビューを果たした。この作品でロカルノ国際映画祭銀賞を受賞したウェルトミューラーは、続いて手掛けたリタ・パヴォーネ主演のテレビ用映画“Il giornalino di Gian Burrasca”(64年)も評判に。しかし、その後はなかなかヒットに恵まれず、ジョージ・H・ブラウンやネイサン・ウィッチという男性名で娯楽映画を監督したり、セルジョ・ソリーマの『狼の挽歌』(70年)やフランコ・ゼフィレッリの『ブラザー・サン・シスター・ムーン』(72年)などの脚本を手掛けたりしていた。
しかし、シチリアにおける労働闘争と男尊女卑の風習を痛烈に皮肉った“Mimi metallurgico ferito nell'onore”(72年)が各映画賞を受賞。さらに、ムッソリーニ暗殺の使命を帯びたアナーキストと娼婦の愛を描いた“Film d'amore e d'anarchia, ovvero 'stamattina alle 10 in via dei Fiori nella nota casa di tolleranza...”(73年)がカンヌ映画祭の男優賞(ジャンカルロ・ジャンニーニ)を受賞。この作品は特にアメリカで評判となった。
そして、74年の『流されて』が、アメリカで外国映画としては異例の大ヒットを記録。ウェルトミューラー本人も“なぜアメリカであれほど受けたのかは全くの謎”と語るほどの熱狂ぶりだった。続く『セブン・ビューティーズ』もニューヨークで盛大なプレミア上映が行われるほどの盛り上がりで、配給を担当したニュー・ライン・シネマはウェルトミューラー作品のおかげで軌道に乗ることが出来たとさえ言われている。
さらに、彼女はこの作品でアカデミー賞4部門にノミネート。中でも監督賞候補に挙がったのは女性としては史上初の快挙だった。ただ、本人曰く制作会社も配給会社もアカデミー賞の根回しについて全く知識がなかったため、何の受賞対策も講じることがなく、そのために1つも受賞が出来なかったらしい。
いずれにせよ、アメリカでもドル箱監督として認知されるようになったウェルトミューラーは、ワーナー・ブラザーズと契約を結び、ジャンカルロ・ジャンニーニとキャンディス・バーゲンを主演に迎えた“La fine del mondo nel nostro solito letto in una notte piena di pioggia”(78年)を発表。左翼のイタリア人ジャーナリストとフェミニストのアメリカ人女性の奇妙な恋愛を描いたこの作品は、イタリアでは評判になったものの、肝心のアメリカ市場では全くの不発だった。
その後、 ●ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の『愛の彷徨』(79年) ●ベルリン国際映画祭で2部門を受賞した『殺意の絆』(86年)、大富豪のビジネス・ウーマンと野獣のようなテロリストの愛欲を描いた『流されて2』(87年) ●エイズを題材にした『ムーンリット・ナイト』(89年) ●現代の貧困と教育問題を描いてアメリカでもヒットした“Io speriamo che me la cavo”(92年)、宗教や因習によって歪曲される人間の性を描いた“Ninfa plebea”(96年) ●ナポリ王フェルディナンド一世と妻カロリーナの破天荒な関係を描いた歴史コメディ“Ferdinando e Carolina”(99年)など、マイペースでコンスタントな創作活動を続けている。
“ 私は常に自分を喜ばせるために映画を撮っているの。それは神のためでもなければ、観客のためでもない。もちろん、批評家なんて論外よ。”と本人も語るように、彼女は決して女流監督だとか、社会派監督だとかいったカテゴリーで語ることの出来ない、非常に独特の世界観を持った映画監督だ。 自分の好きな物語だけを自分の言葉で語り続ける、いわば孤高の語り部とでも呼ぶべき映像作家なのである。 |